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ベトナムと日本

ベトナムの通貨の名称はドンだが、これはベトナムの主要通貨であった銅銭を意味する越語ドンティエンに由来する。日本の銅銭・寛永通宝はその材質の良さから、東アジアの基軸通貨の一つとして流通し、国際取引の決済に使われていた。1940年に日本軍は北部仏印進駐を行い、1941年には南部にも進駐した。これは、フランスのヴィシー政権との外交協議によるものであり、太平洋戦争中も、日本軍はインドシナ植民地政府と共存していた。なお、この日本軍によるベトナム進駐は有色人種が数百年続いてきた白人至上秩序にはじめて亀裂をいれる出来事となり有色人世界に大きな影響を与えた。その後、日本軍は1945年3月にクーデターでフランスの植民地政府・軍を取り潰し、ベトナムを名目的に独立(ベトナム帝国)させたが、間もなく敗戦となった。しかし、その結果生じた権力の空白はベトナム独立同盟に有利に作用した。また、駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことは、結局のところ日本もフランスと同類の帝国主義国に過ぎないという印象を与えることになった。

第二次世界大戦末期の1945年に、ベトナム北部で大量の餓死者が発生した。日本の一部のグループはその原因を日本軍による大量の食糧徴発とし、推計200万人に近いベトナム人の餓死者を出したと主張しているが、餓死者数については正確な人口統計がないため明確には把握できていない。ただし、ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス/日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、ベトナム国内ではこの200万人という数字は広く知られている。また食糧不足の原因についても、元来北部紅河デルタ地帯は人口過剰の割に収穫の少ない食糧飢餓地域であり、常に南部メコンデルタ地帯から輸送される米により人口が維持されてきたものが、連合国による爆撃により海上ならびに鉄道による食糧輸送が壊滅状態に陥ったためとも言われている。また、日本への反感を高めるためにフランスがサボタージュしたとも言われているが、日本軍自身も明号作戦の発動など、対フランス関係の整理で手一杯で、ベトナム人の餓死に対して鈍感であったとも言われている。いずれにしろ、この件につき、日本に対しベトナム政府は外交問題として取り上げたことはない。より多くのベトナム人が、その後の第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争で亡くなっているためと考えられている。

『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
いろんな関わり合いがあったようですね。

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2009年05月29日 00:09に投稿されたエントリーのページです。

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